このままではダメだ――。 危機感を募らせた今野のもとに07年にオファーが届く。
今から7年前の2009年5月、今野泰幸は岐路に立っていた。突然のボランチ失格の通達、そしてCBへのコンバート――。頭が真っ白になるほどの衝撃を受けつつも、以降は未知なるポジションで自らの存在意義を探り続けた。数年後の大きな飛躍へとつながる、重厚な1年を追った。
―――◆―――◆―――◆―――
あまり思い出したくない出来事だということは、やや硬い表情と決して多くない言葉数から伝わってくる。そんな昔のこと、ほじくり返さないでくださいよ――。強張った顔には、そう書いてあるようだった。
今野泰幸の口数を少なくさせているのは、2009年のゴールデンウイークを迎えた頃に起きた出来事である。
FC東京の小平グランドで、チームを率いる城福浩監督に呼び出された今野は、そこではっきりと告げられるのだ。
「CBなら出られるけど、ボランチでは難しい」
続いて投げかけられた言葉が追い打ちをかける。
今のままなら、ヨネ(米本拓司)のほうがいいんだぞ――。
ボランチ失格の通達、だった。
頭が真っ白になるほどの衝撃を受けた今野は、ただただ足元を見つめるしかなかった。
ボランチのレギュラーとして04年にコンサドーレ札幌からFC東京に迎え入れられた今野は、その年8月のアテネ五輪にもボランチとして全3試合に出場し、このポジションへの愛着とこだわりを強めていく。
「A代表も海外挑戦もボランチで行きたいと思っていた。とにかくボランチで上を目指すっていう気持ちが強かったですね、当時は」
05年夏には日本代表にも選出されたが、ボランチを務めていたのは中田英寿、福西崇史、小野伸二といった顔ぶれである。稲本潤一や中田浩二、遠藤保仁ですらベンチに甘んじていたのだから、22歳の若者の出る幕はなかった。
「ゲームを落ち着かせたり、ボールを展開したりする能力が足りなかったから、A代表で試合に出るには実力不足だなって。でも、いつか抜かしてやるんだっていう気持ちでいましたね」
しかし、FC東京では不動のボランチとなったものの、日本代表での立ち位置は06年、07年になっても変わらない。よく言えば、守備のユーティリティプレーヤー。だが、実際のところは守備の便利屋のような存在だった。
このままではダメだ――。
危機感を募らせた今野のもとに07年のシーズン終盤、オファーが届く。今野に声をかけたのは、当時のJリーグを代表するビッグクラブだった。ヨーロッパ移籍の可能性が高まった日本代表選手に代わるボランチとして、白羽の矢が立ったのだ。
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あまり思い出したくない出来事だということは、やや硬い表情と決して多くない言葉数から伝わってくる。そんな昔のこと、ほじくり返さないでくださいよ――。強張った顔には、そう書いてあるようだった。
今野泰幸の口数を少なくさせているのは、2009年のゴールデンウイークを迎えた頃に起きた出来事である。
FC東京の小平グランドで、チームを率いる城福浩監督に呼び出された今野は、そこではっきりと告げられるのだ。
「CBなら出られるけど、ボランチでは難しい」
続いて投げかけられた言葉が追い打ちをかける。
今のままなら、ヨネ(米本拓司)のほうがいいんだぞ――。
ボランチ失格の通達、だった。
頭が真っ白になるほどの衝撃を受けた今野は、ただただ足元を見つめるしかなかった。
ボランチのレギュラーとして04年にコンサドーレ札幌からFC東京に迎え入れられた今野は、その年8月のアテネ五輪にもボランチとして全3試合に出場し、このポジションへの愛着とこだわりを強めていく。
「A代表も海外挑戦もボランチで行きたいと思っていた。とにかくボランチで上を目指すっていう気持ちが強かったですね、当時は」
05年夏には日本代表にも選出されたが、ボランチを務めていたのは中田英寿、福西崇史、小野伸二といった顔ぶれである。稲本潤一や中田浩二、遠藤保仁ですらベンチに甘んじていたのだから、22歳の若者の出る幕はなかった。
「ゲームを落ち着かせたり、ボールを展開したりする能力が足りなかったから、A代表で試合に出るには実力不足だなって。でも、いつか抜かしてやるんだっていう気持ちでいましたね」
しかし、FC東京では不動のボランチとなったものの、日本代表での立ち位置は06年、07年になっても変わらない。よく言えば、守備のユーティリティプレーヤー。だが、実際のところは守備の便利屋のような存在だった。
このままではダメだ――。
危機感を募らせた今野のもとに07年のシーズン終盤、オファーが届く。今野に声をかけたのは、当時のJリーグを代表するビッグクラブだった。ヨーロッパ移籍の可能性が高まった日本代表選手に代わるボランチとして、白羽の矢が立ったのだ。