川崎でプロ5年目となる2010年、キャリアの絶頂期を迎えていた。
朝鮮民主主義人民共和国代表(北朝鮮代表)の一員として出場する南アフリカ・ワールドカップの初戦を目前に控え、ブンデスリーガ2部のボーフムへの移籍を決めた時、鄭大世には、天へと伸びる階段がはっきりと見えていた。
その階段を上がっていけば、プレミアリーグ移籍やブラジル・ワールドカップ出場、欧州チャンピオンズ・リーグ優勝といった夢に辿り着けるはずだった。
ところが、上がり始めてからほどなくして、階段を大きく踏み外してしまう。
「確かに輝いていましたね、2010年の僕は。でも、あの年を最後にスランプに陥るんです。そこから闇が始まって、ずっと低空飛行。その後3年ぐらい、ゴールを取れる気がまるでしなかった」
キャリアの絶頂期を迎えたはずのストライカーに、何が起きていたのか――。
大世にとってヨーロッパでのプレーは、高校時代からの夢だった。
いつしか憧れの対象はセリエAからプレミアリーグへと変わったが、朝鮮大から川崎フロンターレへの加入が決まった際、契約書に「海外移籍の場合は容認する」との条項を盛り込んだほど、ヨーロッパでのプレーを夢見ていた。
「もちろん、その頃は現実味がなくて、単なる夢だったんですけどね」
夢に過ぎなかった海外移籍を現実のものとして意識するようになるのは、2008年シーズンを終える頃からだ。
プロ2年目の2007年から試合に常時出られるようになり、そのシーズンに12ゴールを決めると、2008年シーズンも14ゴールと、2年連続ふた桁得点を記録する。
猪突猛進といった勢いでゴールを目指す姿から「人間ブルドーザー」とのニックネームを拝命し、2007年シーズンのJ1得点王であるジュニーニョとの2トップはJ1屈指の破壊力を誇った。
「優勝争いも当たり前、ふた桁得点も当たり前。その頃からですね、現状に物足りなさを覚えるようになったのは」
2009年シーズンも14ゴールを決めた大世は、ワールドカップイヤーである2010年の目標を海外移籍に定めた。それにはワールドカップで活躍する必要があり、ヨーロッパのリーグでも太刀打ちできるまでに成長する必要がある。
おのずと視線は、チームではなく、自身に向けられた。
「代表では僕が突破しないことにはチャンスが生まれないから、フロンターレでは個の力を磨くことだけを考えて、守備をまったくしなかった。それで監督の高畠(勉)さんにすごく怒られた。今は『なんて愚かだったんだ』って思うけど、当時は気にしてなかったですね」
中村憲剛という稀代のパサーと、ジュニーニョという相手が最も警戒するストライカーのおかげで自身にシュートチャンスが巡ってくるということに、若き日の大世は気づいていなかったのだ。
もっとも、2010年シーズンの序盤は中村もジュニーニョも怪我で離脱していた。それでも大世は10試合で5ゴールを奪ってみせた。
自信は膨らむばかりだった。
その階段を上がっていけば、プレミアリーグ移籍やブラジル・ワールドカップ出場、欧州チャンピオンズ・リーグ優勝といった夢に辿り着けるはずだった。
ところが、上がり始めてからほどなくして、階段を大きく踏み外してしまう。
「確かに輝いていましたね、2010年の僕は。でも、あの年を最後にスランプに陥るんです。そこから闇が始まって、ずっと低空飛行。その後3年ぐらい、ゴールを取れる気がまるでしなかった」
キャリアの絶頂期を迎えたはずのストライカーに、何が起きていたのか――。
大世にとってヨーロッパでのプレーは、高校時代からの夢だった。
いつしか憧れの対象はセリエAからプレミアリーグへと変わったが、朝鮮大から川崎フロンターレへの加入が決まった際、契約書に「海外移籍の場合は容認する」との条項を盛り込んだほど、ヨーロッパでのプレーを夢見ていた。
「もちろん、その頃は現実味がなくて、単なる夢だったんですけどね」
夢に過ぎなかった海外移籍を現実のものとして意識するようになるのは、2008年シーズンを終える頃からだ。
プロ2年目の2007年から試合に常時出られるようになり、そのシーズンに12ゴールを決めると、2008年シーズンも14ゴールと、2年連続ふた桁得点を記録する。
猪突猛進といった勢いでゴールを目指す姿から「人間ブルドーザー」とのニックネームを拝命し、2007年シーズンのJ1得点王であるジュニーニョとの2トップはJ1屈指の破壊力を誇った。
「優勝争いも当たり前、ふた桁得点も当たり前。その頃からですね、現状に物足りなさを覚えるようになったのは」
2009年シーズンも14ゴールを決めた大世は、ワールドカップイヤーである2010年の目標を海外移籍に定めた。それにはワールドカップで活躍する必要があり、ヨーロッパのリーグでも太刀打ちできるまでに成長する必要がある。
おのずと視線は、チームではなく、自身に向けられた。
「代表では僕が突破しないことにはチャンスが生まれないから、フロンターレでは個の力を磨くことだけを考えて、守備をまったくしなかった。それで監督の高畠(勉)さんにすごく怒られた。今は『なんて愚かだったんだ』って思うけど、当時は気にしてなかったですね」
中村憲剛という稀代のパサーと、ジュニーニョという相手が最も警戒するストライカーのおかげで自身にシュートチャンスが巡ってくるということに、若き日の大世は気づいていなかったのだ。
もっとも、2010年シーズンの序盤は中村もジュニーニョも怪我で離脱していた。それでも大世は10試合で5ゴールを奪ってみせた。
自信は膨らむばかりだった。