ストリートサッカーからペルー1部のプロクラブへ
横浜FCのユニホームサプライヤーとなって話題を集め、最近はバルセロナやユベントスとのパートナーシップ契約を発表するなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ。サッカーアパレルブランド、『サッカージャンキー』。その斬新なアイデアと、飽くなき探究心に迫る。
────◆────◆────◆────
モノトーンで描かれた、可愛らしくも品があるフレンチブルドック。このロゴ、サッカーファンなら一度はどこかで見かけたことがあるだろう。
奇抜な発想とデザインで次から次へと新商品を生み出し、いまや若者を中心に絶大な人気を誇っているのが、アパレルブランドの『サッカージャンキー』だ。サッカーダイジェストWebでもお馴染みのジェリーさんのイラストを前面に押し出したグッズをはじめ、いまでは野球やバスケットボール、陸上、バドミントンなどのウェアも手掛け、多様なアプローチでチャレンジを続けている。
昨年春にはJ2・横浜FCとのユニホームサプライヤー契約を発表し、大きな話題を集めた。カジュアル系のみならず、ギア系での実績も積み重ねている。
そんな新興ブランドを立ち上げたのが、社長の青木ハヤトさん。じつにユニークな経歴の持ち主だ。
サッカーを始めたのは、中学の終わり頃。それまではテニス一筋でエリート街道を走っていたが、機会があってサッカーをしたとき、股抜きをされたうえに馬鹿にされ、「じゃあ巧くなってやる!!」と一念発起したという。人一倍の俊足を拠り所に独学でサッカーを学び、日体荏原高校のサッカー部に入部。3年時に東京都代表としてインターハイ出場を果たすなど、“野人”ばりのプレースタイルで活躍した。
しかし、大学ではサッカー部に所属しなかった。のめり込んだのが、ストリートサッカーだ。
「乃木坂の青山墓地の横に金網でくくられた空き地があるんです。2点先に取ったら勝ち残れるルールで、それこそいろんな人が集まってましたね。のちにサッカージャンキーのコンセプトになる、ストリートサッカーブランドのきっかけとなった場所です」
そんな大都会の路地裏で出会ったのが、元日本代表のレジェンド、ラモス瑠偉さんだった。ある日、紹介されたペルー出身の知人から、「いとこが監督になったんだけど行く?」と声をかけられる。「すごく軽いなぁと思いつつ、二つ返事で『行く』と答えました」。なんとストリートサッカーから、プロキャリアがスタートしたのだ。
そして2002年9月、24歳でペルーに旅立つ。所属したのは1部リーグのクラブ、アリアンサ・リマだった。
「1年いまして、プライドというプライドの刃をバキバキに折られましたね。試合には出てましたけど、まるで歯が立たなくて。ホームゲームなんて2万人くらい入るんですが、緊張で視界がどんどん狭まっていくんですよ」
首都リマでも合間を見てはストリートサッカーに興じるなど濃密な時間を過ごし、帰国。将来を模索するなかでひとつの出会いからサッカーアパレルブランドの世界に足を踏み入れ、紆余曲折を経て、2009年にサッカージャンキーを立ち上げた。
「ちょうど、これからどうしようかと考えている時期でしたね。毎週土日に『サッカージャンキーカップ』という大会をやっていたんですよ。そこで『景品ないの?』って訊かれて、『えっ?』となって。だから本当はしょうがなく始めました(笑)。サッカージャンキーは、高校時代から使っていたメールアドレスのフレーズです」
────◆────◆────◆────
モノトーンで描かれた、可愛らしくも品があるフレンチブルドック。このロゴ、サッカーファンなら一度はどこかで見かけたことがあるだろう。
奇抜な発想とデザインで次から次へと新商品を生み出し、いまや若者を中心に絶大な人気を誇っているのが、アパレルブランドの『サッカージャンキー』だ。サッカーダイジェストWebでもお馴染みのジェリーさんのイラストを前面に押し出したグッズをはじめ、いまでは野球やバスケットボール、陸上、バドミントンなどのウェアも手掛け、多様なアプローチでチャレンジを続けている。
昨年春にはJ2・横浜FCとのユニホームサプライヤー契約を発表し、大きな話題を集めた。カジュアル系のみならず、ギア系での実績も積み重ねている。
そんな新興ブランドを立ち上げたのが、社長の青木ハヤトさん。じつにユニークな経歴の持ち主だ。
サッカーを始めたのは、中学の終わり頃。それまではテニス一筋でエリート街道を走っていたが、機会があってサッカーをしたとき、股抜きをされたうえに馬鹿にされ、「じゃあ巧くなってやる!!」と一念発起したという。人一倍の俊足を拠り所に独学でサッカーを学び、日体荏原高校のサッカー部に入部。3年時に東京都代表としてインターハイ出場を果たすなど、“野人”ばりのプレースタイルで活躍した。
しかし、大学ではサッカー部に所属しなかった。のめり込んだのが、ストリートサッカーだ。
「乃木坂の青山墓地の横に金網でくくられた空き地があるんです。2点先に取ったら勝ち残れるルールで、それこそいろんな人が集まってましたね。のちにサッカージャンキーのコンセプトになる、ストリートサッカーブランドのきっかけとなった場所です」
そんな大都会の路地裏で出会ったのが、元日本代表のレジェンド、ラモス瑠偉さんだった。ある日、紹介されたペルー出身の知人から、「いとこが監督になったんだけど行く?」と声をかけられる。「すごく軽いなぁと思いつつ、二つ返事で『行く』と答えました」。なんとストリートサッカーから、プロキャリアがスタートしたのだ。
そして2002年9月、24歳でペルーに旅立つ。所属したのは1部リーグのクラブ、アリアンサ・リマだった。
「1年いまして、プライドというプライドの刃をバキバキに折られましたね。試合には出てましたけど、まるで歯が立たなくて。ホームゲームなんて2万人くらい入るんですが、緊張で視界がどんどん狭まっていくんですよ」
首都リマでも合間を見てはストリートサッカーに興じるなど濃密な時間を過ごし、帰国。将来を模索するなかでひとつの出会いからサッカーアパレルブランドの世界に足を踏み入れ、紆余曲折を経て、2009年にサッカージャンキーを立ち上げた。
「ちょうど、これからどうしようかと考えている時期でしたね。毎週土日に『サッカージャンキーカップ』という大会をやっていたんですよ。そこで『景品ないの?』って訊かれて、『えっ?』となって。だから本当はしょうがなく始めました(笑)。サッカージャンキーは、高校時代から使っていたメールアドレスのフレーズです」