目がくらむような速さで、スターダムを。
いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。
1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。
後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。
アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
今回、満を持して登場してくれるのが、黄金世代不動の名ボランチ、稲本潤一だ。
長期に渡る負傷離脱からチーム練習に復帰し、いよいよJ1復帰も近づいてきた。そんなレジェンドが黄金世代での切磋琢磨を紐解き、自身の生い立ち、ガンバでの日々、プレミアリーグでの波瀾万丈、さらには日本代表での栄光と苦悩などなど、キャリアのすべてを語り尽くしてくれた。
浪速の風雲児、ここにあり!
【稲本潤一PHOTO】語り継がれるべきキャリアを厳選フォトで
───◆───◆───
「うわっ、しもた」
冬の夕暮れどき、17歳の青年がぽつりと呟いた。
新加入の助っ人、パトリック・エムボマのインタビュー取材を終えて外に出ると、見覚えのある高校生が呆然と立ちすくんでいた。聞けば、あてにしていた先輩が先に帰ってしまったらしい。いつもは最寄りの駅まで車に乗せてもらうのだが、その日は居残り練習となったため、頼み損ねたという。
時は1997年3月、場所は京都・田辺町にあったガンバ大阪の練習場。グラウンドは枯れ芝、クラブハウスの大部分はプレハブを増築してこしらえたお粗末なもの。いまや壮麗なサッカー専用スタジアムと至れり尽くせりの施設を持つ強豪クラブにも、そんな時代があったのだ。
ちょうど車で来ていたし、彼とはユース年代の現場で面識もあったので、乗せてあげることにした。「お! まじっすか。ラッキー!」と言って後部座席に飛び込む。駅に着くまで、20分くらいはあっただろうか。運転手のわたしは、いかにも高校生が興味を持ちそうな質問を投げかけた。そのいずれにもにこやかに受け答えする青年。むしろこちらに気を使わせまいと、会話を盛り上げてくれた。
ホンマに17歳か? どこかふてぶてしいが、まるで嫌みがない。当時から稲本潤一には、ひとを惹きつける人間的な魅力があった。
黄金世代において、小野伸二はまさに太陽のように周囲を照らす親分。かたや稲本は、あまり前には出てこないが、いつもチームのムードを大切にする“裏リーダー”だった。タイプの異なるふたつのシンボル。彼らが絶妙な役割分担(きっと無意識)をこなしたからこそ、新参者や曲者もすんなり溶け込める、あのチーム独特のオープンな雰囲気を創出できたのだ。
京阪電車の樟葉(くずは)駅に着いた。「こっから堺までどれくらいかかんの?」と訊くと、「どうやろ、2時間半くらいですかね」とそこは素っ気ない。こちらがビックリしていると、「慣れですよ、慣れ。ほなっ!」と言い放ち、でっかいリュックサックを背負って、颯爽と改札口に去っていった。
少し肩をいからせて小走りする後姿を、いまでも鮮明に覚えている。まさかこの若者がいずれ、日本サッカー界を背負って立つ名ボランチになろうとは──。
半月後、17歳6か月のイナは当時のJリーグ最年少出場記録を塗り替えた。一躍脚光を浴び、そこからは目もくらむような速さで、スターダムを駆け上がっていった。
時代の寵児となったのだ。
1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。
後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。
アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
今回、満を持して登場してくれるのが、黄金世代不動の名ボランチ、稲本潤一だ。
長期に渡る負傷離脱からチーム練習に復帰し、いよいよJ1復帰も近づいてきた。そんなレジェンドが黄金世代での切磋琢磨を紐解き、自身の生い立ち、ガンバでの日々、プレミアリーグでの波瀾万丈、さらには日本代表での栄光と苦悩などなど、キャリアのすべてを語り尽くしてくれた。
浪速の風雲児、ここにあり!
【稲本潤一PHOTO】語り継がれるべきキャリアを厳選フォトで
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「うわっ、しもた」
冬の夕暮れどき、17歳の青年がぽつりと呟いた。
新加入の助っ人、パトリック・エムボマのインタビュー取材を終えて外に出ると、見覚えのある高校生が呆然と立ちすくんでいた。聞けば、あてにしていた先輩が先に帰ってしまったらしい。いつもは最寄りの駅まで車に乗せてもらうのだが、その日は居残り練習となったため、頼み損ねたという。
時は1997年3月、場所は京都・田辺町にあったガンバ大阪の練習場。グラウンドは枯れ芝、クラブハウスの大部分はプレハブを増築してこしらえたお粗末なもの。いまや壮麗なサッカー専用スタジアムと至れり尽くせりの施設を持つ強豪クラブにも、そんな時代があったのだ。
ちょうど車で来ていたし、彼とはユース年代の現場で面識もあったので、乗せてあげることにした。「お! まじっすか。ラッキー!」と言って後部座席に飛び込む。駅に着くまで、20分くらいはあっただろうか。運転手のわたしは、いかにも高校生が興味を持ちそうな質問を投げかけた。そのいずれにもにこやかに受け答えする青年。むしろこちらに気を使わせまいと、会話を盛り上げてくれた。
ホンマに17歳か? どこかふてぶてしいが、まるで嫌みがない。当時から稲本潤一には、ひとを惹きつける人間的な魅力があった。
黄金世代において、小野伸二はまさに太陽のように周囲を照らす親分。かたや稲本は、あまり前には出てこないが、いつもチームのムードを大切にする“裏リーダー”だった。タイプの異なるふたつのシンボル。彼らが絶妙な役割分担(きっと無意識)をこなしたからこそ、新参者や曲者もすんなり溶け込める、あのチーム独特のオープンな雰囲気を創出できたのだ。
京阪電車の樟葉(くずは)駅に着いた。「こっから堺までどれくらいかかんの?」と訊くと、「どうやろ、2時間半くらいですかね」とそこは素っ気ない。こちらがビックリしていると、「慣れですよ、慣れ。ほなっ!」と言い放ち、でっかいリュックサックを背負って、颯爽と改札口に去っていった。
少し肩をいからせて小走りする後姿を、いまでも鮮明に覚えている。まさかこの若者がいずれ、日本サッカー界を背負って立つ名ボランチになろうとは──。
半月後、17歳6か月のイナは当時のJリーグ最年少出場記録を塗り替えた。一躍脚光を浴び、そこからは目もくらむような速さで、スターダムを駆け上がっていった。
時代の寵児となったのだ。