「本田のカウンターアタック、最悪のプレーヤーだった男だ」
「しかしカルチョとは残酷なものである。ジェノアよ、結果を拾い集めたのはミランだったのだ。本田のカウンターアタック、ピッチ上で最悪のプレーヤーだった男だ。ボールが転がり、ゴールへ。信じ難いが本当のことだ。厳しすぎる罰だ」
本田圭佑のセリエA初ゴールを伝えた現地メディアのマッチレビューのなかで、個人的に一番痛快だったのはジェノバの地元紙『イル・セーコロ・デーチモノノ』の一文だった。試合中、「なんだあの出来損ない、ミランは10人で戦っているようなもんじゃないか」と嘲笑していたジェノバの地元記者が、そんな下りを書かされる羽目になったのだから。
「しょせん日本人にカルチョはできない。マーケティングのために出されてるんだ」。記者のひとりは、こう談笑もしていた。ジェノアがインテルの長友佑都に2ゴールを決められていることは、もうお忘れのようだったが……。
ただ、ジェノバの人たちがこう語る背景には、単なる偏見や差別的感情を越えたものがある。たしかに前半、ほとんどパスが回ってこなかったという不可抗力があったとはいえ、本田が試合の流れに乗り切れていなかったのは事実だ。そしてなにより、ジェノバの街の人々は、日本人選手の実力に対する疑念を実体験として持っている。それも二度に渡ってだ。ほかならぬジェノアでプレーした三浦知良と、サンプドリアで1年間戦った柳沢敦のケースである。
彼らは選手として、また人間として一目置かれてはいた。
「ミウラはダービーでゴールを決めてくれたし、なにより毎日遅くまで練習に打ち込んでいた様子はいまも覚えている」
そう述懐するジェノアーノ(ジェノアファン)はいまだにいる。
柳沢に対しても、
「練習では上手い。もっと試合で使ってあげてもいいだろうに。なにより彼は感じのいい男だ」
と練習場で語るドリアーノ(サンプドリアファン)は、当時、少なくなかった。だが実戦で結果が出せず、煽り立てられた大多数のファンの期待は失望、または反感へと変わった。
2004年4月、柳沢が最後の先発のチャンスを与えられながら、それを生かせず、チームも敗れたモデナ戦の後。それまで温かく見守っていた地元ファンが練習場で罵声を吐いていた光景は、いまでも痛々しく思い出される。
長友がインテルで活躍するようになって久しいが、「マーケティング云々」などと、日本人選手の資質を問うような見方はイタリアではまだまだ払拭されていない。それを跳ね返すには、やはり継続的に実績を残すことが求められる。地元のファンやメディアはその辺りを厳しく見ているのだ。
その点で本田も苦しい状況にあったが、ここにきて良い流れが訪れている。フィオレンティーナ戦では90分間の守備で勝利に貢献し、前節のキエーボ戦ではカカのゴールをアシストした。そしてジェノア戦でのゴールだ。カバーに入るジョバンニ・マルケーゼをかわし、エリア外で大胆にカットを狙ったGKマッティア・ペリンを越えてボールを浮かせた一連のプレーは、あの状況下で最善の選択だった。劣勢のなか、少ないチャンスを確実に生かす決定的な仕事は、攻撃的なプレーヤーに求められる重要なクオリティーだ。
しばらくは、試合によって救世主と称賛されたり、「出来損ない」と言われたりするかもしれない。ただ本田がそれを乗り越えて、ミランで継続的に結果を出したとき、日本人選手に対する疑念そのものも払拭されるだろう。柳沢のサンプドリア移籍から11年、カズのジェノア移籍から20年。彼の地で挙げた初ゴールが、そのきっかけになると期待したい。
――◆――◆――
2014年1月、本田圭佑が新たなチャレンジを開始した。CSKAモスクワから、世界屈指の
超名門クラブ、ACミランへ――。
「心の中の『リトル本田』に聞いた」との名言とともに、名門クラブの背番号10番を背負った本田。そのロッソネーロ(ミランの愛称で赤と黒の意)の日々を、現地在住のライター、神尾光臣氏が追う。
本田圭佑のセリエA初ゴールを伝えた現地メディアのマッチレビューのなかで、個人的に一番痛快だったのはジェノバの地元紙『イル・セーコロ・デーチモノノ』の一文だった。試合中、「なんだあの出来損ない、ミランは10人で戦っているようなもんじゃないか」と嘲笑していたジェノバの地元記者が、そんな下りを書かされる羽目になったのだから。
「しょせん日本人にカルチョはできない。マーケティングのために出されてるんだ」。記者のひとりは、こう談笑もしていた。ジェノアがインテルの長友佑都に2ゴールを決められていることは、もうお忘れのようだったが……。
ただ、ジェノバの人たちがこう語る背景には、単なる偏見や差別的感情を越えたものがある。たしかに前半、ほとんどパスが回ってこなかったという不可抗力があったとはいえ、本田が試合の流れに乗り切れていなかったのは事実だ。そしてなにより、ジェノバの街の人々は、日本人選手の実力に対する疑念を実体験として持っている。それも二度に渡ってだ。ほかならぬジェノアでプレーした三浦知良と、サンプドリアで1年間戦った柳沢敦のケースである。
彼らは選手として、また人間として一目置かれてはいた。
「ミウラはダービーでゴールを決めてくれたし、なにより毎日遅くまで練習に打ち込んでいた様子はいまも覚えている」
そう述懐するジェノアーノ(ジェノアファン)はいまだにいる。
柳沢に対しても、
「練習では上手い。もっと試合で使ってあげてもいいだろうに。なにより彼は感じのいい男だ」
と練習場で語るドリアーノ(サンプドリアファン)は、当時、少なくなかった。だが実戦で結果が出せず、煽り立てられた大多数のファンの期待は失望、または反感へと変わった。
2004年4月、柳沢が最後の先発のチャンスを与えられながら、それを生かせず、チームも敗れたモデナ戦の後。それまで温かく見守っていた地元ファンが練習場で罵声を吐いていた光景は、いまでも痛々しく思い出される。
長友がインテルで活躍するようになって久しいが、「マーケティング云々」などと、日本人選手の資質を問うような見方はイタリアではまだまだ払拭されていない。それを跳ね返すには、やはり継続的に実績を残すことが求められる。地元のファンやメディアはその辺りを厳しく見ているのだ。
その点で本田も苦しい状況にあったが、ここにきて良い流れが訪れている。フィオレンティーナ戦では90分間の守備で勝利に貢献し、前節のキエーボ戦ではカカのゴールをアシストした。そしてジェノア戦でのゴールだ。カバーに入るジョバンニ・マルケーゼをかわし、エリア外で大胆にカットを狙ったGKマッティア・ペリンを越えてボールを浮かせた一連のプレーは、あの状況下で最善の選択だった。劣勢のなか、少ないチャンスを確実に生かす決定的な仕事は、攻撃的なプレーヤーに求められる重要なクオリティーだ。
しばらくは、試合によって救世主と称賛されたり、「出来損ない」と言われたりするかもしれない。ただ本田がそれを乗り越えて、ミランで継続的に結果を出したとき、日本人選手に対する疑念そのものも払拭されるだろう。柳沢のサンプドリア移籍から11年、カズのジェノア移籍から20年。彼の地で挙げた初ゴールが、そのきっかけになると期待したい。
――◆――◆――
2014年1月、本田圭佑が新たなチャレンジを開始した。CSKAモスクワから、世界屈指の
超名門クラブ、ACミランへ――。
「心の中の『リトル本田』に聞いた」との名言とともに、名門クラブの背番号10番を背負った本田。そのロッソネーロ(ミランの愛称で赤と黒の意)の日々を、現地在住のライター、神尾光臣氏が追う。