本大会直前の戦術変更でレギュラー落ちも、感情を表には出さず…。
「ワールドカップはサッカー選手なら誰もが、出たいと思う大会。4年前、本番直前にメンバーがコロッと代わり、僕はベンチからその大会を見ていました。今度のワールドカップはイメージを払拭するチャンスだと思っています。ドイツで4年間頑張ってきたし、いろんな大会にも出てきた。そういう自分にも自信があります。是非ピッチでそれを出せるように頑張りたい」
5月12日、ブラジル・ワールドカップの日本代表メンバーに選ばれた内田篤人は、記者会見の席上、そう話した。その言葉は強く、そしてまっすぐだった。
4年前、カシマスタジアムで行なわれた南アフリカ大会へ向けた会見では、内田のコメントは、どこか変化球じみていた。ワールドカップへ意気込む熱い決意を求めようとするメディアの質問を、内田はサラリとかわしていた様子を思い出す。メンバー入りの嬉しさも含めて、あらゆる感情を他人には知られたくないと考えていたに違いない。そうすることで、プレッシャーをも上手くかわしていたのだろう。
しかし、4年後の東京で、記者だけでなく、たくさんのファンや観衆が見守る公開会見の席上、「こういうの大の苦手なんですよ~」と繰り返しながらも、内田はしっかりと、4年に一度のビッグイベントへの想いを口にした。「払拭したい」という言葉には、4年前の雪辱を晴らすという想いもあるだろう。
2010年5月30日、ワールドカップを前に行なわれたイングランド代表との親善試合。そのスタメンに内田の名前はなかった。
国内最後の壮行試合で韓国と対戦し、惨敗した日本は、それまでのスタイルを捨て、守備を重視した戦術への変更に伴い、それまでレギュラーとして戦っていたGKの楢崎正剛、MFの中村俊輔、DFの内田を控えに回したのだ。戦術の変更に伴って先発落ちと理解するのはたやすいが、そんなことで気持ちの整理がつくわけもない。
「ワールドカップ出場権獲得のために戦ってきたのに。なぜここで」
悔しさと怒りという熱い感情と、落胆や悲しみという冷たい感情とが心のなかでせめぎ合ったに違いない。ベテランの楢崎や中村でさえ、複雑な想いを整理するのに時間が必要だったと後に語っている。若い内田は整理する方法すら知らなかったかもしれない。
大会直前のある日の練習後、大勢の記者に囲まれながら歩く内田の姿を思い出す。まったく何事もなかったかのように彼は振る舞っていた。熱い感情も冷たい感情も、どんな感情すら見せたくはないと努めている姿は、サバサバとした様子に見えないこともない。そんな内田を見て、「もっとムキになって、ポジションを取り戻すくらいの覇気があってもいいのに」と話す記者もいたほどだ。
大会前の取材で、内田は「僕は強がっていないと、代表クラスでは生きていけないですよ」と話していた。だからこそ、弱っている自分を見せることは許されない。精一杯、強がってはじめて、立っていられたのだろう。
「ドイツへ行けることだけが、僕の救いだったかなぁ」
当時はまだ正式に発表はされていなかったが、ワールドカップ終了後にシャルケへ移籍する可能性のあった内田は、自身の未来を想像することで、気持ちのバランスを保っていたのかもしれない。
大会が終わって移籍が正式発表されると、すぐにドイツへ渡った。新しい挑戦をすることで、新しいページが開ける。真っ白な気持ちで新天地へ飛び込んだ。
5月12日、ブラジル・ワールドカップの日本代表メンバーに選ばれた内田篤人は、記者会見の席上、そう話した。その言葉は強く、そしてまっすぐだった。
4年前、カシマスタジアムで行なわれた南アフリカ大会へ向けた会見では、内田のコメントは、どこか変化球じみていた。ワールドカップへ意気込む熱い決意を求めようとするメディアの質問を、内田はサラリとかわしていた様子を思い出す。メンバー入りの嬉しさも含めて、あらゆる感情を他人には知られたくないと考えていたに違いない。そうすることで、プレッシャーをも上手くかわしていたのだろう。
しかし、4年後の東京で、記者だけでなく、たくさんのファンや観衆が見守る公開会見の席上、「こういうの大の苦手なんですよ~」と繰り返しながらも、内田はしっかりと、4年に一度のビッグイベントへの想いを口にした。「払拭したい」という言葉には、4年前の雪辱を晴らすという想いもあるだろう。
2010年5月30日、ワールドカップを前に行なわれたイングランド代表との親善試合。そのスタメンに内田の名前はなかった。
国内最後の壮行試合で韓国と対戦し、惨敗した日本は、それまでのスタイルを捨て、守備を重視した戦術への変更に伴い、それまでレギュラーとして戦っていたGKの楢崎正剛、MFの中村俊輔、DFの内田を控えに回したのだ。戦術の変更に伴って先発落ちと理解するのはたやすいが、そんなことで気持ちの整理がつくわけもない。
「ワールドカップ出場権獲得のために戦ってきたのに。なぜここで」
悔しさと怒りという熱い感情と、落胆や悲しみという冷たい感情とが心のなかでせめぎ合ったに違いない。ベテランの楢崎や中村でさえ、複雑な想いを整理するのに時間が必要だったと後に語っている。若い内田は整理する方法すら知らなかったかもしれない。
大会直前のある日の練習後、大勢の記者に囲まれながら歩く内田の姿を思い出す。まったく何事もなかったかのように彼は振る舞っていた。熱い感情も冷たい感情も、どんな感情すら見せたくはないと努めている姿は、サバサバとした様子に見えないこともない。そんな内田を見て、「もっとムキになって、ポジションを取り戻すくらいの覇気があってもいいのに」と話す記者もいたほどだ。
大会前の取材で、内田は「僕は強がっていないと、代表クラスでは生きていけないですよ」と話していた。だからこそ、弱っている自分を見せることは許されない。精一杯、強がってはじめて、立っていられたのだろう。
「ドイツへ行けることだけが、僕の救いだったかなぁ」
当時はまだ正式に発表はされていなかったが、ワールドカップ終了後にシャルケへ移籍する可能性のあった内田は、自身の未来を想像することで、気持ちのバランスを保っていたのかもしれない。
大会が終わって移籍が正式発表されると、すぐにドイツへ渡った。新しい挑戦をすることで、新しいページが開ける。真っ白な気持ちで新天地へ飛び込んだ。