問題児のレッテルを張られた「遅刻事件」から徳島への移籍。
C大阪でくすぶっていた19歳の柿谷曜一朗が決断したのは、08年にJ2の最下位に沈んだ徳島への移籍だった。サッカー人生の分岐点とも言える2年半――。徳島で彼を見守った様々な関係者の話から、少年から大人へ変貌していく柿谷の姿が浮かび上がる。
(週刊サッカーダイジェスト 2013.10.22号より)
―◆―◆―
「地獄を見なさい」
湿っぽい梅雨空がどこまでも垂れ込めていた2009年6月、徳島の強化部長・中田仁司は19歳だった柿谷曜一朗と車に乗り、大阪から鳴門大橋を渡り徳島へ移動していた。中田は柿谷にこれまでの徳島のチーム事情と、クラブ側が寄せる彼への期待の大きさを伝えた。
「お前のポテンシャルを考えたら、当然、試合には出られると思う」
柿谷は小さく頷く。
「ただし……」と中田は続ける。
「徳島はJ2の下位に沈んできたチーム。もしも、ここで戦ってレギュラーを獲れないようだったら、どこに行ってもおそらく無理だ。もちろん、その争いはここでもある。それに人口が決して多くない街だから、ヴォルティスの選手がなにかしでかしたら、瞬く間に知れ渡ってしまう。セレッソにいた時のような真似はできないし、言ってみれば、サッカーしかできない。だから、地獄だ。言い換えれば、思う存分にサッカーができる最高の環境が待っているぞ」
柿谷は不安そうな表情を崩さなかった。
中田がC大阪のトップチームのコーチをしていた時、柿谷はC大阪U-12(小学生の下部組織)に在籍していた。彼の同級生に中田の長男・良(現・HOYO大分)がいた関係で、双方の両親が知り合い、家族ぐるみの付き合いを続けてきた。
その後、中田はC大阪のユース総括責任者、名古屋のコーチ、監督などを経て、08年に現在の強化部長の職に就く。そして09年、C大阪のレヴィー・クルピ監督が柿谷に激怒した『遅刻事件』がスポーツ紙で大きく報じられ、中田は「おい、なにやってんだ!」と生き胆を抜かれた。
やがて、柿谷が行き場を失っているようだという話が中田の耳にも入る。生活態度に問題があるとレッテルを貼られた選手など、他のクラブが獲得を敬遠するのは必然の成り行きと言えた。
「残るは海外に行くしかないか。でも、この状況では厳しいだろうな……」
中田がそんなことを考えていたある日、長居スタジアムでC大阪の強化部長・梶野智と雑談をする機会があった。その会話のなかで柿谷についても触れた。
「いやぁ、とはいえウチにアイツを雇うほどの資金はないからなあ……」
中田はそう言ったが、獲得の可能性が決してゼロではないと感じた。むしろこれは徳島にとってチャンスになるのではないかと考え、フロントに掛け合ったのだ。
「決して悪い子ではない。サッカーに対して、とにかく真面目なやつなんだ。その報道の情報だけで判断してほしくない」
柿谷を幼少の頃から知る中田は、懸命に説得に当たった。獲得するには、年俸に加えレンタルフィーも発生する。徳島の懐事情を考えれば、かなり高い買い物である。ただ上昇への兆しが見えてきた徳島に彼が与える影響は、決して小さくないはずだ。
「俺がいれば大丈夫。あとは任せてほしい」
最後はその一言で、フロントを説き伏せた。その後、代理人とのやりとりをするなかで、柿谷が徳島行きを前向きに捉え、決断したと知る。中田は素直に心から喜んだ。
「運命かもしれませんね(笑)。16歳でプロになり、プレーは間違いなく飛び抜けていた。でも心は小学6年生のまま。プレーと心が一致していなかったんでしょう」
柿谷を乗せた車が徳島に到着し、中田は街を案内した。そして彼の新居へと送り届け、翌日の集合時間を伝える。
「曜一朗らしく、あとはサッカーを楽しめばいいんだ」
別れ際の中田の言葉に、柿谷は小さく笑った。
(週刊サッカーダイジェスト 2013.10.22号より)
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「地獄を見なさい」
湿っぽい梅雨空がどこまでも垂れ込めていた2009年6月、徳島の強化部長・中田仁司は19歳だった柿谷曜一朗と車に乗り、大阪から鳴門大橋を渡り徳島へ移動していた。中田は柿谷にこれまでの徳島のチーム事情と、クラブ側が寄せる彼への期待の大きさを伝えた。
「お前のポテンシャルを考えたら、当然、試合には出られると思う」
柿谷は小さく頷く。
「ただし……」と中田は続ける。
「徳島はJ2の下位に沈んできたチーム。もしも、ここで戦ってレギュラーを獲れないようだったら、どこに行ってもおそらく無理だ。もちろん、その争いはここでもある。それに人口が決して多くない街だから、ヴォルティスの選手がなにかしでかしたら、瞬く間に知れ渡ってしまう。セレッソにいた時のような真似はできないし、言ってみれば、サッカーしかできない。だから、地獄だ。言い換えれば、思う存分にサッカーができる最高の環境が待っているぞ」
柿谷は不安そうな表情を崩さなかった。
中田がC大阪のトップチームのコーチをしていた時、柿谷はC大阪U-12(小学生の下部組織)に在籍していた。彼の同級生に中田の長男・良(現・HOYO大分)がいた関係で、双方の両親が知り合い、家族ぐるみの付き合いを続けてきた。
その後、中田はC大阪のユース総括責任者、名古屋のコーチ、監督などを経て、08年に現在の強化部長の職に就く。そして09年、C大阪のレヴィー・クルピ監督が柿谷に激怒した『遅刻事件』がスポーツ紙で大きく報じられ、中田は「おい、なにやってんだ!」と生き胆を抜かれた。
やがて、柿谷が行き場を失っているようだという話が中田の耳にも入る。生活態度に問題があるとレッテルを貼られた選手など、他のクラブが獲得を敬遠するのは必然の成り行きと言えた。
「残るは海外に行くしかないか。でも、この状況では厳しいだろうな……」
中田がそんなことを考えていたある日、長居スタジアムでC大阪の強化部長・梶野智と雑談をする機会があった。その会話のなかで柿谷についても触れた。
「いやぁ、とはいえウチにアイツを雇うほどの資金はないからなあ……」
中田はそう言ったが、獲得の可能性が決してゼロではないと感じた。むしろこれは徳島にとってチャンスになるのではないかと考え、フロントに掛け合ったのだ。
「決して悪い子ではない。サッカーに対して、とにかく真面目なやつなんだ。その報道の情報だけで判断してほしくない」
柿谷を幼少の頃から知る中田は、懸命に説得に当たった。獲得するには、年俸に加えレンタルフィーも発生する。徳島の懐事情を考えれば、かなり高い買い物である。ただ上昇への兆しが見えてきた徳島に彼が与える影響は、決して小さくないはずだ。
「俺がいれば大丈夫。あとは任せてほしい」
最後はその一言で、フロントを説き伏せた。その後、代理人とのやりとりをするなかで、柿谷が徳島行きを前向きに捉え、決断したと知る。中田は素直に心から喜んだ。
「運命かもしれませんね(笑)。16歳でプロになり、プレーは間違いなく飛び抜けていた。でも心は小学6年生のまま。プレーと心が一致していなかったんでしょう」
柿谷を乗せた車が徳島に到着し、中田は街を案内した。そして彼の新居へと送り届け、翌日の集合時間を伝える。
「曜一朗らしく、あとはサッカーを楽しめばいいんだ」
別れ際の中田の言葉に、柿谷は小さく笑った。