フルメンバーのセレソンと対戦するも酷評された1989年。
ブラジル・ワールドカップを目前にした日本代表。前回大会以上の成績を挙げられるかどうか、興味と期待は高まる一方だが、そのためにも初戦となるコートジボワール戦で勝利を奪って、以降に弾みをつけたいところだ。
そして今大会で挙げる1勝目は、別の意味でも日本代表にとって記念のものとなる。というのも、これまで日本代表(男子A代表)は、一度も南米の地で勝利を挙げたことがないからだ。
これまで日本代表は、その長き歴史において4度、南米遠征を行なっている。ここでは、それぞれの遠征での結果を振り返ってみよう。
◇1967年 南米遠征
7月28日 ●0‐1 ペルーB代表
7月30日 △0‐0 ペルーB代表
8月6日 ●0‐2 リネンセ(ブラジル)
8月10日 ●0‐1 パルメイラス(ブラジル)
8月13日 ●0‐2 プルデンチーナ(ブラジル)
8月15日 ●1‐2 フェロビアリオ(ブラジル)
最初の遠征はメキシコ・オリンピックを翌年に控えた1967年。当時は、サッカー途上国である日本が南米の強豪国のA代表チームと対戦するのは難しく、もっぱらクラブチーム(それもいくらかメンバーを落として)が相手となったが、6戦して1分5敗。しかし、ここでの経験は翌年にしっかりと活かされ、長沼健監督に率いられた日本は、中米の地で歴史に残る銅メダルという偉業を達成することになった。
◇1989年 南米遠征
7月9日 ●1‐2 エストゥディアンテス(アルゼンチン)
7月11日 △2‐2 ボカ(アルゼンチン)
7月13日 ●0‐2 インデペンディエンテ(アルゼンチン)
7月18日 ●0‐1 コリチーバ(ブラジル)
7月20日 ●0‐1 ジョインビーレ(ブラジル)
7月23日 ●0‐1 ブラジル代表
7月27日 ●0‐1 パルメイラス(ブラジル)
2度目の遠征は89年。本来、これは90年イタリア・ワールドカップ・アジア最終予選に向けての強化となるはずだったが、日本は1次予選で北朝鮮の後塵を拝して敗退。よってこの遠征は、目的を失ったものとなってしまった。
この時もアルゼンチン、ブラジルのクラブが主な対戦相手だったが、1試合だけA代表チームとの対戦が実現。それが、カレッカ、ロマーリオ、ドゥンガなど、ベストメンバーを揃えたブラジル代表だったから、当時の日本サッカー界では大きな話題となった。しかし、ブラジルでは弱小国である日本との試合に国民の関心は低く、会場となったサン・ジャヌアリオ(ヴァスコの本拠地)のスタンドには空席が非常に目立った。
試合はブラジルの“公開攻撃練習”という様相になったが、フィニッシュの拙さとGK森下申一の再三の好守により、日本は何とか最少失点で試合を終えた。しかし、横山謙三監督の標榜する攻撃サッカーはまったく機能せず。日本代表の歴史において唯一赤いユニホームを着用したこの時のチームは「ワールドカップ予選すら通過できないパッとしないチーム」と、ブラジルメディアから酷評される有様だった。
そして今大会で挙げる1勝目は、別の意味でも日本代表にとって記念のものとなる。というのも、これまで日本代表(男子A代表)は、一度も南米の地で勝利を挙げたことがないからだ。
これまで日本代表は、その長き歴史において4度、南米遠征を行なっている。ここでは、それぞれの遠征での結果を振り返ってみよう。
◇1967年 南米遠征
7月28日 ●0‐1 ペルーB代表
7月30日 △0‐0 ペルーB代表
8月6日 ●0‐2 リネンセ(ブラジル)
8月10日 ●0‐1 パルメイラス(ブラジル)
8月13日 ●0‐2 プルデンチーナ(ブラジル)
8月15日 ●1‐2 フェロビアリオ(ブラジル)
最初の遠征はメキシコ・オリンピックを翌年に控えた1967年。当時は、サッカー途上国である日本が南米の強豪国のA代表チームと対戦するのは難しく、もっぱらクラブチーム(それもいくらかメンバーを落として)が相手となったが、6戦して1分5敗。しかし、ここでの経験は翌年にしっかりと活かされ、長沼健監督に率いられた日本は、中米の地で歴史に残る銅メダルという偉業を達成することになった。
◇1989年 南米遠征
7月9日 ●1‐2 エストゥディアンテス(アルゼンチン)
7月11日 △2‐2 ボカ(アルゼンチン)
7月13日 ●0‐2 インデペンディエンテ(アルゼンチン)
7月18日 ●0‐1 コリチーバ(ブラジル)
7月20日 ●0‐1 ジョインビーレ(ブラジル)
7月23日 ●0‐1 ブラジル代表
7月27日 ●0‐1 パルメイラス(ブラジル)
2度目の遠征は89年。本来、これは90年イタリア・ワールドカップ・アジア最終予選に向けての強化となるはずだったが、日本は1次予選で北朝鮮の後塵を拝して敗退。よってこの遠征は、目的を失ったものとなってしまった。
この時もアルゼンチン、ブラジルのクラブが主な対戦相手だったが、1試合だけA代表チームとの対戦が実現。それが、カレッカ、ロマーリオ、ドゥンガなど、ベストメンバーを揃えたブラジル代表だったから、当時の日本サッカー界では大きな話題となった。しかし、ブラジルでは弱小国である日本との試合に国民の関心は低く、会場となったサン・ジャヌアリオ(ヴァスコの本拠地)のスタンドには空席が非常に目立った。
試合はブラジルの“公開攻撃練習”という様相になったが、フィニッシュの拙さとGK森下申一の再三の好守により、日本は何とか最少失点で試合を終えた。しかし、横山謙三監督の標榜する攻撃サッカーはまったく機能せず。日本代表の歴史において唯一赤いユニホームを着用したこの時のチームは「ワールドカップ予選すら通過できないパッとしないチーム」と、ブラジルメディアから酷評される有様だった。