サッカーから競輪の道へ進んだ兄の背中を追い、彼も同じ道を歩むことに。サッカーについては「下手でした」と照れくさそうに話していたが、競輪の話になると、表情はクッと引き締まり、自信に満ち溢れていた。「トップレベルで戦いたい」~サッカーで叶わなかった夢に、今度は競輪で挑む19歳、元サッカー少年へのインタビュー。
――サッカー歴を教えてください。
「小学校からです。中学までずっと三菱養和調布ジュニアユースでお世話になっていました」
――どんなプレーヤーだったの? ポジションは?
「守備が得意で、対人プレーには自信がありました。自分の中では、走れない選手ではなかったと思います。左利きということもあり、主に左サイドバックをやっていました」
――高校は全国出場を目指して、名門の鹿島学園に進学したわけですね。
「中学生時代もレギュラーではなかったですし、全然エリートではなかったのですが、サッカーをしていた5つ上の兄が、鹿島学園でサッカーをしていて、自分も挑戦してみたかったんです。結局、兄も僕も、全国の舞台には立てませんでしたが」
――Aチームに上がったことは?
「一度もありませんでした。チャンスがあれば上に行けると思って、最後まであきらめず、必死で頑張りましたが、ずっとBチームのままでした。悔しかったですけど、やり切った思いはあります。もちろん、いまもサッカーは大好きです」
――では、競輪選手を目指すようになったきっかけは何ですか?
「これも兄の影響が大きかったですね。兄は高校卒業後、競輪選手になる道へ進みました。自分が高3の時にちょうど競輪学校生で、自分の卒業のタイミングで、プロになりました。その姿を見て、自分も、せっかくサッカーを続けてきたので、新しいスポーツに挑戦したい、と思うようになりました」
――寺沼君のひとつ上のお兄さんも、今年競輪学校に入学したと聞いています。3兄弟いずれも競輪選手ってすごいことですよね。もともと競輪との接点はあったんですか?
「実家の近くに競輪場(京王閣)があって、何度か家族と一緒に観に行ったことがありました。レースのスピードや迫力に、すごいなあ、と子どもながらに思っていました」
――お兄さん方の存在もあって、ご両親も寺沼くんの進路を後押ししやすかったのかもしれませんね。
「そうですね。ケガに気をつけて、と言われたくらいで、応援してくれました。自分の決意も固かったですから」
――競輪選手になる、と決めたのはいつ頃ですか?
「進路はかなり悩みましたが、高3のインターハイの時期には気持ちは固まって、引退したら、すぐトレーニングをしようと思っていました」
――部活は選手権まで?
「はい。ただ、自転車に対応できるように、走り込みやウエイトなどの基礎体力をつけようと思って練習していました。どんなトレーニングをしたらよいか、兄にも相談しました」
――上田綺世(法大2年、現U-21日本代表)と同級生ということは、鹿島学園は選手権に出場したよね。
「スタンドで応援していました。それから退寮して、自由登校期間に入るのですが、地元に戻って、競輪学校の受験の準備を始めました。師匠の田谷勇さんの下で、本当に自転車の基礎から教えていただきました」
――普通の自転車と勝手が違うと思いますが、怖くなかったですか?
「競技用に乗るのは初めてだったので、最初は、傾斜を走るのが本当に怖くて、慣れるまでたいへんでした。1ケ月くらいは室内でパワー系のメニューを中心に行なっていました」
――競輪学校の受験は翌秋だから、準備期間は1年くらいかな。その間はどんなトレーニングしていましたか?
「朝4時に起きて、朝5時に京王閣競輪場へ行って、12時くらいまで団体練習。午後は夕方まで自主トレといった流れでした。姉弟子の中村由香里さんに付き合っていただいて、同じく受験を控える兄も一緒に練習していました」
――聞くだけで、きつそうですね。
「最初は身体がもたず、帰ったらすぐ寝るという生活でした」