大卒時には練習参加したクラブからことごとく獲得を見送られた
神戸が推し進める“バルサ化”に引き寄せられるのは必然だった。
今夏、J2の岐阜から神戸へステップアップ移籍を果たした23歳、古橋亨梧の経歴はとても興味深いもので、「人生万事塞翁が馬」を体現している選手と言える。
大阪の興国高を卒業後、当時関東1部だった中央大へ進学。1年次から出場機会を掴み、チームにとって欠かせない戦力となった。その古橋の特徴であり、自身が最大の武器とも語るスピード溢れるドリブル突破は当時から輝きを放っており、デビューしてからまもなく得点も記録。当時の関東大学リーグでも屈指のサイドアタッカーと言って過言ではない活躍を見せ、筆者を含めて見る者に卒業後の進路を期待させてくれたものだ。
しかし、2年次以降は自身の怪我であったり、周囲との連係に苦しんだ。そして3年次には2部降格を経験してしまう。これは中央大サッカー部として史上二度目である。ちなみに一度目は川崎フロンターレの中村憲剛が3年生の時だ。この時は1年での1部復帰を達成したのだが、古橋は卒業年次にチームを1部に導くことができなかった。
「1年の時にいい感じでプレー出来ていて2年目もいけるかなと思っていたのですが、うまくいかなくて。3年目もうまくいかなくて(2部に)落ちてしまった。4年目に苦しい状況でチームを上げるつもりでやっていたけどそこもうまくいかなくて。そのなかでもプロになれて嬉しいという気持ちが大きいですけど、やっぱり後悔がすごく大きいです」
今夏、J2の岐阜から神戸へステップアップ移籍を果たした23歳、古橋亨梧の経歴はとても興味深いもので、「人生万事塞翁が馬」を体現している選手と言える。
大阪の興国高を卒業後、当時関東1部だった中央大へ進学。1年次から出場機会を掴み、チームにとって欠かせない戦力となった。その古橋の特徴であり、自身が最大の武器とも語るスピード溢れるドリブル突破は当時から輝きを放っており、デビューしてからまもなく得点も記録。当時の関東大学リーグでも屈指のサイドアタッカーと言って過言ではない活躍を見せ、筆者を含めて見る者に卒業後の進路を期待させてくれたものだ。
しかし、2年次以降は自身の怪我であったり、周囲との連係に苦しんだ。そして3年次には2部降格を経験してしまう。これは中央大サッカー部として史上二度目である。ちなみに一度目は川崎フロンターレの中村憲剛が3年生の時だ。この時は1年での1部復帰を達成したのだが、古橋は卒業年次にチームを1部に導くことができなかった。
「1年の時にいい感じでプレー出来ていて2年目もいけるかなと思っていたのですが、うまくいかなくて。3年目もうまくいかなくて(2部に)落ちてしまった。4年目に苦しい状況でチームを上げるつもりでやっていたけどそこもうまくいかなくて。そのなかでもプロになれて嬉しいという気持ちが大きいですけど、やっぱり後悔がすごく大きいです」
卒業後、プロ入りが決まった後に彼はこう口にしていた。彼にとっての4年間はやはり苦さが残るものだったようだ。
プロを目指す選手にとって1部と2部はプレーする舞台の差としては非常に大きい。当たり前だがスカウトが足を運ぶ数が多いのは前者。そういう意味でも勝負である上級生時にトップの舞台でプレーできないということは、古橋にとって痛恨だった。そんななかでも、もちろん本人はプロを目指すわけだが、練習参加した複数のクラブからことごとくNGを突きつけられることになった。J2はいわずもがな、J3のクラブまでが古橋の獲得を見送ったのである。
J3のクラブにも行けない――。
そんななか、転機が訪れた。
プロを目指す選手にとって1部と2部はプレーする舞台の差としては非常に大きい。当たり前だがスカウトが足を運ぶ数が多いのは前者。そういう意味でも勝負である上級生時にトップの舞台でプレーできないということは、古橋にとって痛恨だった。そんななかでも、もちろん本人はプロを目指すわけだが、練習参加した複数のクラブからことごとくNGを突きつけられることになった。J2はいわずもがな、J3のクラブまでが古橋の獲得を見送ったのである。
J3のクラブにも行けない――。
そんななか、転機が訪れた。