初めての世界大会。ドアの向こうになにがあったか。

2001年から浦和での出場機会を増やした鈴木は、翌2002年にレギュラーに定着。(C)SOCCER DIGEST

アテネ五輪の出場権を懸けたアジア予選では、キャプテンとしてチームを牽引した。(C)SOCCER DIGEST
高校時代、県内有数の名門校に所属してはいたが、年齢別の日本代表とはほとんど無縁の生活だった。しかし、プロからのオファーを受ける。「誰だって、俺がプロ選手になるなんて思っていなかったはず」と振り返る。
2002年5月、U-21日本代表の一員として、フランスで行なわれたツーロン国際大会に参加。小野剛監督のもと、アイルランド、南アフリカ、ドイツ、イタリアとグループリーグを戦った。初戦のアイルランド戦で、日本代表のシャツを初めて身にまとった。試合翌日そのことについて訊いた。
「昨日、試合が終わって、ホテルの部屋でシャワーを浴びたら、身体の至るところに痣が残っていたんですよ。あぁ、世界の当たりを体験しているんだなぁって」
瞳をキラキラとさせ、しみじみと嬉しそうに話す。必死の勝負だったに違いないが、未体験の場所でプレーできたこと、未知と遭遇できた時間がとても楽しかったことを伝えてくれた。
私は過去の20代以下の選手を何度も取材してきたが、その屈託のない楽しそうなは姿は、とても新鮮で、心に引っかかった。その理由を上手くは説明できないけれど、この会話をきっかけに、私は鈴木啓太という選手に興味を持つ。余談ではあるが、過去から現在に至るまでの20数年間、心に引っかかる選手との出会いは、こういうふとした会話や仕草、表情などが、きっかけになってきたなぁ……と今、ちょっと思い出した。
3戦負けなしで挑んだ最後のイタリア戦で敗れ、日本は3位決定戦へ。イングランドとの試合はPK戦の末、日本が勝利し、3位になった。後にも先にも、日本がこの大会で入賞したのは、このチームだけだ。しかし鈴木はイタリア戦に出場できず、それが心残りだと振り返る。
2002年は日韓ワールドカップで盛り上がった。そんな喧騒のなかで、鈴木は想いを強くした。「いつか、日本代表の一員として、ワールドカップへ」。もちろん、誰も信じてはくれなかった。唯一、本人だけが、その夢を追いかけることへ不安も疑問もなかった。
ワールドカップの熱気が残るなか、2002年秋には山本昌邦監督のもとアテネ五輪を目指す代表チームの活動が本格化する。同時期、浦和も大改革が行なわれ、20代前後の若い選手を、ハンス・オフト監督が細かく指導し、鈴木の選手としてのレベルが急角度で上昇し始めた。
最終予選は2004年3月。UAEのアブダビ(1日~4日)と東京(14日~18日)の2会場で4か国のリーグ戦が集中開催された。レバノン、バーレーン、UAE、日本での総当たり2回戦。1位の国にのみ、アテネ出場権が与えられる。
UAEラウンドは、体調不良や怪我人など数々のアクシデントもありながら、2勝1分の首位で帰国。国立競技場の大観戦を前に、独特の緊張感もあったのだろう。日本ラウンドは、初戦のバーレーン戦で敗れ、レバノンには勝利したものの、最終戦でぶつかるUAEとの勝点差は同じ。実質、決勝戦ともいえる一戦に挑んだ。
ここまでのU-23代表チームのキャプテンを鈴木が任されていた。日本ラウンドから合流した大久保嘉人の2得点を含む3-0で快勝。見事アテネ五輪出場権を獲得した。追い込まれた選手たちの悪い雰囲気を一新したいと、鈴木はミーティングルームにミスターチルドレンの「終わりなき旅」の歌詞を張り出したと言われている。
閉ざされたドアの向こうに 新しいなにかがまっていて
きっと きっとって僕を動かしている。
いいことばかりでは無いさ でも次のドアをノックしたい
もっと大きなはずの自分を探す 終わりなき旅
出場権獲得の余韻に浸る間もなく、躍進する浦和の心臓として戦い始めた鈴木。同時に本戦であるアテネ五輪メンバー入りへの競争も白熱を増した。しかし、鈴木はそのメンバーから外れた。
「やれることは精いっぱいやった。それで、監督に必要とされないのであれば、しょうがない」
大きな落胆を隠さない浦和のチームメイトやメディアたち。落涙する者もいた。周囲の反応には「驚いた」と話すが、きっと泣いてくれる誰かがいたから「次の場所へ」と迎えたのだろう。
2002年5月、U-21日本代表の一員として、フランスで行なわれたツーロン国際大会に参加。小野剛監督のもと、アイルランド、南アフリカ、ドイツ、イタリアとグループリーグを戦った。初戦のアイルランド戦で、日本代表のシャツを初めて身にまとった。試合翌日そのことについて訊いた。
「昨日、試合が終わって、ホテルの部屋でシャワーを浴びたら、身体の至るところに痣が残っていたんですよ。あぁ、世界の当たりを体験しているんだなぁって」
瞳をキラキラとさせ、しみじみと嬉しそうに話す。必死の勝負だったに違いないが、未体験の場所でプレーできたこと、未知と遭遇できた時間がとても楽しかったことを伝えてくれた。
私は過去の20代以下の選手を何度も取材してきたが、その屈託のない楽しそうなは姿は、とても新鮮で、心に引っかかった。その理由を上手くは説明できないけれど、この会話をきっかけに、私は鈴木啓太という選手に興味を持つ。余談ではあるが、過去から現在に至るまでの20数年間、心に引っかかる選手との出会いは、こういうふとした会話や仕草、表情などが、きっかけになってきたなぁ……と今、ちょっと思い出した。
3戦負けなしで挑んだ最後のイタリア戦で敗れ、日本は3位決定戦へ。イングランドとの試合はPK戦の末、日本が勝利し、3位になった。後にも先にも、日本がこの大会で入賞したのは、このチームだけだ。しかし鈴木はイタリア戦に出場できず、それが心残りだと振り返る。
2002年は日韓ワールドカップで盛り上がった。そんな喧騒のなかで、鈴木は想いを強くした。「いつか、日本代表の一員として、ワールドカップへ」。もちろん、誰も信じてはくれなかった。唯一、本人だけが、その夢を追いかけることへ不安も疑問もなかった。
ワールドカップの熱気が残るなか、2002年秋には山本昌邦監督のもとアテネ五輪を目指す代表チームの活動が本格化する。同時期、浦和も大改革が行なわれ、20代前後の若い選手を、ハンス・オフト監督が細かく指導し、鈴木の選手としてのレベルが急角度で上昇し始めた。
最終予選は2004年3月。UAEのアブダビ(1日~4日)と東京(14日~18日)の2会場で4か国のリーグ戦が集中開催された。レバノン、バーレーン、UAE、日本での総当たり2回戦。1位の国にのみ、アテネ出場権が与えられる。
UAEラウンドは、体調不良や怪我人など数々のアクシデントもありながら、2勝1分の首位で帰国。国立競技場の大観戦を前に、独特の緊張感もあったのだろう。日本ラウンドは、初戦のバーレーン戦で敗れ、レバノンには勝利したものの、最終戦でぶつかるUAEとの勝点差は同じ。実質、決勝戦ともいえる一戦に挑んだ。
ここまでのU-23代表チームのキャプテンを鈴木が任されていた。日本ラウンドから合流した大久保嘉人の2得点を含む3-0で快勝。見事アテネ五輪出場権を獲得した。追い込まれた選手たちの悪い雰囲気を一新したいと、鈴木はミーティングルームにミスターチルドレンの「終わりなき旅」の歌詞を張り出したと言われている。
閉ざされたドアの向こうに 新しいなにかがまっていて
きっと きっとって僕を動かしている。
いいことばかりでは無いさ でも次のドアをノックしたい
もっと大きなはずの自分を探す 終わりなき旅
出場権獲得の余韻に浸る間もなく、躍進する浦和の心臓として戦い始めた鈴木。同時に本戦であるアテネ五輪メンバー入りへの競争も白熱を増した。しかし、鈴木はそのメンバーから外れた。
「やれることは精いっぱいやった。それで、監督に必要とされないのであれば、しょうがない」
大きな落胆を隠さない浦和のチームメイトやメディアたち。落涙する者もいた。周囲の反応には「驚いた」と話すが、きっと泣いてくれる誰かがいたから「次の場所へ」と迎えたのだろう。