スタジアム建設は、サンフレッチェのため「だけ」なのか?
だが、平和記念公園を設計した丹下健三氏の最初のプランでは、広島城周辺の中央公園付近にサッカー場や陸上競技場を建設する予定だった。
さらにいえば、市民球場跡地はもともと原爆の被害にあわれた方々が住居やバラックを構えて住んでいた「住宅地」であり、それを広島市民球場建設のために立ち退いてもらったという経緯がある。
つまり、歴史的な見地からは、この場所は「祈り」が主目的とはなっていない。
それに、スタジアムとはスポーツを行う場所であり、スポーツは平和の象徴。ここで祈りを捧げるのは、決して不自然ではない。
実際、東日本大震災の時や広島土砂災害の時は、キックオフ前に選手・スタッフ・サポーターが祈りを捧げた。全てのホームゲームで、試合前に黙祷してもいい。
「だいたい、一私企業であるサンフレッチェ広島のために、スタジアムを作るなんて、わがままだ」
確かにサンフレッチェ広島は、わずか20日+αの日程しか使わない。そのため「だけ」にスタジアムを造るのは、確かに「わがまま」だろう。では、この質問に対しては、どう答えるべきか。
「旧市民球場跡地のそばにある広島グリーンアリーナは、主たる使用者すらない状況なのに、一等地に構えている体育館だ。それも、スポーツマンのわがままなのか」
あるいは、こういう質問に対しては、どうだろう。
「広島駅すぐ側という一等地に、マツダスタジアムはある。主たる使用者たる広島カープが使用するのは年間60~70日前後。残り300日近くはどう稼働するのか。一私企業であるカープのために、税金を投入して建設したこのスタジアムは贅沢ではないのか」
もちろん、このふたつの質問とも一笑に付されることだろう。
広島グリーンアリーナはスポーツだけでなく様々なイベントも行なわれ、広島市民の社会体育の場所としても重要。マツダスタジアムはカープの試合によって多くの賑わいが生まれるだけでなく、市民・県民にとっての重要な娯楽を提供し、生活に潤いと意欲向上をもたらす。たとえアマチュアがプレーする機会が少なくとも、1年の1/3しか稼働していなくても、十分に社会的な意義がある。
同じことが、サッカースタジアムにも言えるはずだ。
さらにいえば、市民球場跡地はもともと原爆の被害にあわれた方々が住居やバラックを構えて住んでいた「住宅地」であり、それを広島市民球場建設のために立ち退いてもらったという経緯がある。
つまり、歴史的な見地からは、この場所は「祈り」が主目的とはなっていない。
それに、スタジアムとはスポーツを行う場所であり、スポーツは平和の象徴。ここで祈りを捧げるのは、決して不自然ではない。
実際、東日本大震災の時や広島土砂災害の時は、キックオフ前に選手・スタッフ・サポーターが祈りを捧げた。全てのホームゲームで、試合前に黙祷してもいい。
「だいたい、一私企業であるサンフレッチェ広島のために、スタジアムを作るなんて、わがままだ」
確かにサンフレッチェ広島は、わずか20日+αの日程しか使わない。そのため「だけ」にスタジアムを造るのは、確かに「わがまま」だろう。では、この質問に対しては、どう答えるべきか。
「旧市民球場跡地のそばにある広島グリーンアリーナは、主たる使用者すらない状況なのに、一等地に構えている体育館だ。それも、スポーツマンのわがままなのか」
あるいは、こういう質問に対しては、どうだろう。
「広島駅すぐ側という一等地に、マツダスタジアムはある。主たる使用者たる広島カープが使用するのは年間60~70日前後。残り300日近くはどう稼働するのか。一私企業であるカープのために、税金を投入して建設したこのスタジアムは贅沢ではないのか」
もちろん、このふたつの質問とも一笑に付されることだろう。
広島グリーンアリーナはスポーツだけでなく様々なイベントも行なわれ、広島市民の社会体育の場所としても重要。マツダスタジアムはカープの試合によって多くの賑わいが生まれるだけでなく、市民・県民にとっての重要な娯楽を提供し、生活に潤いと意欲向上をもたらす。たとえアマチュアがプレーする機会が少なくとも、1年の1/3しか稼働していなくても、十分に社会的な意義がある。
同じことが、サッカースタジアムにも言えるはずだ。