「たくさんの人に支えてもらっている。下の世代に引き継いでいかなきゃいけない」
――選手会で最近、力を入れていることは?
ひとつは、被災地の復興支援活動です。東日本大震災から5年が立ち、少しずつ風化してきているなかで、まだ仮設住宅で生活されている方々がたくさんいると聞いています。今はサッカースクールなどを開催して、微力ながら活動させてもらっていますが、今年に入って熊本、鳥取が被災し、サッカー選手として何ができるだろうと考えました。各クラブで派遣活動をするのか、選手会として行なうのか、今は活動内容をまとめている段階です。
そのほかに、選手が引退した後のケアに対する制度作りにも力を入れています。J2やJ3の選手は、J1の選手に比べると引退した時にお金の面で苦労しているのが現状なので、セカンドライフにスムーズに移行できるように、一時金を少しでも工面する、いわゆる「退職金制度」ですね。
佐藤前会長時代に『小規模企業共済』(加入者に対する補助金制度)という、選手会とJリーグ、サッカー協会の三者がお金を出し合って、毎年補助金を支給する制度を作りました。『小規模企業共済』加入により、引退した際の退職金代わりになっています。
また、来年から放映権が大きく変わり、今まで以上に選手がメディアに露出するだろうと、伺っています。そこに対して、選手がどう協力していくかは、クラブの広報部長、GM、社長といった方々からだけではなく、選手会としても働きかけが必要だと思います。サッカー界の質、Jリーグの質、パフォーマンスの質を高めていくために、Jリーグ、日本サッカー協会との“架け橋”になっていきたいですね。
――新潟の早川史哉選手(編集部・注/今年6月に急性白血病と診断されたことが発表され、闘病生活を送る)の支援チャリティーも、高橋選手が中心となって活動に移されたと伺いました。
クラブの選手会代表者が年に2回集まる総会の場で、当時支部長だった守田選手(達弥/現・監事/新潟)から、「今、早川選手はこういうことを悩んでいる」「短期でサポートするのではなく、継続的にサポートしてあげるべきだ」という生の声を頂きました。選手会として話し合った結果、「みんなでサポートしていきましょう」とチャリティーなどを行なう体制になったのが、一連の経緯です。
本人が一番辛い状況のなか、自分を含め直接的な関わり合いがない場合、どうしても闘病生活についてイメージしづらい部分があります。ただ、同じピッチでプレーしていた選手が声を発信することで、より身近に感じてもらえるはず。選手たちもなるべく寄り添って、同じサッカー界の仲間としてできることはやっていこうという意思を持っています。それをどう共有し、行動に移していくか。こういったチャリティーは、これからも続けていきたいと思っています。
――オフ・ザ・ピッチの姿はなかなか想像ができない部分もあるので、選手会の活動模様ももっと発信してほしいと願っているファン・サポーターの方もいると思います。
そうですね。僕たちとしても認知してほしい部分があるので、メディアのみなさんに取り上げて頂いたり、SNSを使って会議の風景をもっと発信していく必要があると思います。意外と「スーツ姿を見たい」と言ってくださるファンの方もいるかもしれないですし。次に取材して頂くまでに、もっとたくさんのことをお話しできるだけの内容を、僕としてもまとめておかなければいけませんね。
――今後、どのような活動や発展をしていきたいと考えていますか?
今まで築き上げてきた選手会のベースを引き継ぎつつ、Jリーグと日本サッカー協会と同じベクトルを向いていくには、どのような協力をしていくのがベストか。まずは、そこを突き詰めていくことが大事かなと思います。
個人的には、たくさんの人に支えてもらっているからこそ、下の世代に引き継いでいかなければいけないなと。支部訪問に行った時に、意見をくれるのはやっぱりベテランなんですよね。逆に、若い選手は日々の練習をこなすので精一杯になりがちな傾向がある。
でもプロサッカー選手として、組織の一員として、プレー以外のことも考えていかければならない。例えば、先ほど言った放映権の変化によってどういうことが起きるのか、問題提起をさせたり、何をしていくべきなのか問いかけてみたり、興味を持ってほしい。僕もだいぶ大人になりました(笑)。
取材・文:小田智史(サッカーダイジェスト編集部)
インタビュー写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)
PROFILE
たかはし・ひでと/1987年10月17日生まれ、群馬県出身。183センチ、75キロ。伊勢崎SFCイレブン―図南群馬SC Jrユース―前橋商高―東京学芸大―FC東京。J1通算148試合・10得点、J2通算32試合・4得点、J3通算2試合・0得点、日本代表通算7試合・0得点。CBもこなす高さと強さを併せ持つ大型ボランチ。日本プロサッカー選手会では14年から副会長を2年間務め、今年6月に佐藤寿人に代わって会長の座に就いた。
ひとつは、被災地の復興支援活動です。東日本大震災から5年が立ち、少しずつ風化してきているなかで、まだ仮設住宅で生活されている方々がたくさんいると聞いています。今はサッカースクールなどを開催して、微力ながら活動させてもらっていますが、今年に入って熊本、鳥取が被災し、サッカー選手として何ができるだろうと考えました。各クラブで派遣活動をするのか、選手会として行なうのか、今は活動内容をまとめている段階です。
そのほかに、選手が引退した後のケアに対する制度作りにも力を入れています。J2やJ3の選手は、J1の選手に比べると引退した時にお金の面で苦労しているのが現状なので、セカンドライフにスムーズに移行できるように、一時金を少しでも工面する、いわゆる「退職金制度」ですね。
佐藤前会長時代に『小規模企業共済』(加入者に対する補助金制度)という、選手会とJリーグ、サッカー協会の三者がお金を出し合って、毎年補助金を支給する制度を作りました。『小規模企業共済』加入により、引退した際の退職金代わりになっています。
また、来年から放映権が大きく変わり、今まで以上に選手がメディアに露出するだろうと、伺っています。そこに対して、選手がどう協力していくかは、クラブの広報部長、GM、社長といった方々からだけではなく、選手会としても働きかけが必要だと思います。サッカー界の質、Jリーグの質、パフォーマンスの質を高めていくために、Jリーグ、日本サッカー協会との“架け橋”になっていきたいですね。
――新潟の早川史哉選手(編集部・注/今年6月に急性白血病と診断されたことが発表され、闘病生活を送る)の支援チャリティーも、高橋選手が中心となって活動に移されたと伺いました。
クラブの選手会代表者が年に2回集まる総会の場で、当時支部長だった守田選手(達弥/現・監事/新潟)から、「今、早川選手はこういうことを悩んでいる」「短期でサポートするのではなく、継続的にサポートしてあげるべきだ」という生の声を頂きました。選手会として話し合った結果、「みんなでサポートしていきましょう」とチャリティーなどを行なう体制になったのが、一連の経緯です。
本人が一番辛い状況のなか、自分を含め直接的な関わり合いがない場合、どうしても闘病生活についてイメージしづらい部分があります。ただ、同じピッチでプレーしていた選手が声を発信することで、より身近に感じてもらえるはず。選手たちもなるべく寄り添って、同じサッカー界の仲間としてできることはやっていこうという意思を持っています。それをどう共有し、行動に移していくか。こういったチャリティーは、これからも続けていきたいと思っています。
――オフ・ザ・ピッチの姿はなかなか想像ができない部分もあるので、選手会の活動模様ももっと発信してほしいと願っているファン・サポーターの方もいると思います。
そうですね。僕たちとしても認知してほしい部分があるので、メディアのみなさんに取り上げて頂いたり、SNSを使って会議の風景をもっと発信していく必要があると思います。意外と「スーツ姿を見たい」と言ってくださるファンの方もいるかもしれないですし。次に取材して頂くまでに、もっとたくさんのことをお話しできるだけの内容を、僕としてもまとめておかなければいけませんね。
――今後、どのような活動や発展をしていきたいと考えていますか?
今まで築き上げてきた選手会のベースを引き継ぎつつ、Jリーグと日本サッカー協会と同じベクトルを向いていくには、どのような協力をしていくのがベストか。まずは、そこを突き詰めていくことが大事かなと思います。
個人的には、たくさんの人に支えてもらっているからこそ、下の世代に引き継いでいかなければいけないなと。支部訪問に行った時に、意見をくれるのはやっぱりベテランなんですよね。逆に、若い選手は日々の練習をこなすので精一杯になりがちな傾向がある。
でもプロサッカー選手として、組織の一員として、プレー以外のことも考えていかければならない。例えば、先ほど言った放映権の変化によってどういうことが起きるのか、問題提起をさせたり、何をしていくべきなのか問いかけてみたり、興味を持ってほしい。僕もだいぶ大人になりました(笑)。
取材・文:小田智史(サッカーダイジェスト編集部)
インタビュー写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)
PROFILE
たかはし・ひでと/1987年10月17日生まれ、群馬県出身。183センチ、75キロ。伊勢崎SFCイレブン―図南群馬SC Jrユース―前橋商高―東京学芸大―FC東京。J1通算148試合・10得点、J2通算32試合・4得点、J3通算2試合・0得点、日本代表通算7試合・0得点。CBもこなす高さと強さを併せ持つ大型ボランチ。日本プロサッカー選手会では14年から副会長を2年間務め、今年6月に佐藤寿人に代わって会長の座に就いた。