仲間への信頼感からチームは結束し快進撃。石川県勢初の選手権ベスト4へ。
3年生になると本田がキャプテンに就任し、チーム内での議論も活発に行なわれるようになっていく。
「みんなに要求するというより、『ここはこうしたほうがいいんじゃないか』とか、チーム全体を向上させたいと思うようになった。それで、できるだけ俺の考えをみんなに植え付けたいと思ってやっていた」
本田は1年の頃から、「このままでは全国大会の上位には行けない」と危機感を抱いていた。彼は決して、自分だけが成り上がればいいという独りよがりな考えを持っていたわけではない。強気な発言をするのは、自分自身だけでなくチームのレベルを引き上げたいという想いからだった。そのスタンスは、今も変わっていない。
そんな本田のもとには複数のJクラブから誘いが届くようになり、04年に名古屋の特別指定選手となって、ナビスコカップの磐田戦でデビューを果たす。徐々に注目度が高まるなか、正式に名古屋への加入を発表し、最後の高校選手権に集中する環境を整えた。しかも星稜高のチーム状態が、上向いていた。
「選手権の頃には、もう俺からみんなに言うことはなにもなかった。選手権でみんな『すべてを見せてやる!』という気持ちになっていたからね」
仲間への信頼感。前年まではどちらかというと希薄だったその意識が強まり、チームは彼を中心に結束し、快進撃を続けた。
結果的に準決勝で市立船橋高にPK戦の末に敗れたものの、石川県勢初のベスト4に勝ち上がり、星稜高と本田の名を、全国区へ広めた。
「本当に良い仲間に恵まれた。良い仲間がいたから俺がなんでもかんでもやらなきゃと思わなくて済んだ。時には味方に助けてもらおう、そんな考えを持てるようになった」
高校の3年間で、本田の性格は間違いなく変わった。
「確かに変わった。味方の長所を生かしてやれば俺の良さも味方が引き出してくれる。最初は『俺がやらないとなにもできない』としか考えてなかったけど、実は俺も引き出してもらっていたんだと気付くことができた」
この星稜高での3年間があったからこそ、本田は周囲を活かし、周囲に活かされながらプレーを楽しむ方法を知り、そのサッカー人生を大きく飛躍させることができたのだ。
「いろんな意味でベストな状況を、周りが作り出してくれた。河崎先生がそういう環境を作ってくれたお陰だし、感謝してもし尽くせない3年間だった」
――◆――◆――
「もっと高い目標がある。こんなところで満足していたら、そこに辿り着けない」
この言葉は、本田が南アフリカ・ワールドカップから帰国後、恩師の河崎監督に発した言葉だ。「高い目標」とは、その後加入することになったミランに移籍することではなく、そこで活躍し、さらなるビッグクラブに移籍すること、そして、彼が信じて疑わない「ワールドカップ優勝」だ。
目標に向かって、走り続ける覚悟がある限り、本田は中学、高校時代とまったく変わることなく、苦境を平然と受け入れながら、さらなる進化を遂げていくだろう。それが本田圭佑という男の生き様である。
(文中敬称略)
取材・文:安藤隆人(サッカージャーナリスト)
※『週刊サッカーダイジェスト』2014年7月10日発行 『日本代表23人の少年時代』より抜粋
「みんなに要求するというより、『ここはこうしたほうがいいんじゃないか』とか、チーム全体を向上させたいと思うようになった。それで、できるだけ俺の考えをみんなに植え付けたいと思ってやっていた」
本田は1年の頃から、「このままでは全国大会の上位には行けない」と危機感を抱いていた。彼は決して、自分だけが成り上がればいいという独りよがりな考えを持っていたわけではない。強気な発言をするのは、自分自身だけでなくチームのレベルを引き上げたいという想いからだった。そのスタンスは、今も変わっていない。
そんな本田のもとには複数のJクラブから誘いが届くようになり、04年に名古屋の特別指定選手となって、ナビスコカップの磐田戦でデビューを果たす。徐々に注目度が高まるなか、正式に名古屋への加入を発表し、最後の高校選手権に集中する環境を整えた。しかも星稜高のチーム状態が、上向いていた。
「選手権の頃には、もう俺からみんなに言うことはなにもなかった。選手権でみんな『すべてを見せてやる!』という気持ちになっていたからね」
仲間への信頼感。前年まではどちらかというと希薄だったその意識が強まり、チームは彼を中心に結束し、快進撃を続けた。
結果的に準決勝で市立船橋高にPK戦の末に敗れたものの、石川県勢初のベスト4に勝ち上がり、星稜高と本田の名を、全国区へ広めた。
「本当に良い仲間に恵まれた。良い仲間がいたから俺がなんでもかんでもやらなきゃと思わなくて済んだ。時には味方に助けてもらおう、そんな考えを持てるようになった」
高校の3年間で、本田の性格は間違いなく変わった。
「確かに変わった。味方の長所を生かしてやれば俺の良さも味方が引き出してくれる。最初は『俺がやらないとなにもできない』としか考えてなかったけど、実は俺も引き出してもらっていたんだと気付くことができた」
この星稜高での3年間があったからこそ、本田は周囲を活かし、周囲に活かされながらプレーを楽しむ方法を知り、そのサッカー人生を大きく飛躍させることができたのだ。
「いろんな意味でベストな状況を、周りが作り出してくれた。河崎先生がそういう環境を作ってくれたお陰だし、感謝してもし尽くせない3年間だった」
――◆――◆――
「もっと高い目標がある。こんなところで満足していたら、そこに辿り着けない」
この言葉は、本田が南アフリカ・ワールドカップから帰国後、恩師の河崎監督に発した言葉だ。「高い目標」とは、その後加入することになったミランに移籍することではなく、そこで活躍し、さらなるビッグクラブに移籍すること、そして、彼が信じて疑わない「ワールドカップ優勝」だ。
目標に向かって、走り続ける覚悟がある限り、本田は中学、高校時代とまったく変わることなく、苦境を平然と受け入れながら、さらなる進化を遂げていくだろう。それが本田圭佑という男の生き様である。
(文中敬称略)
取材・文:安藤隆人(サッカージャーナリスト)
※『週刊サッカーダイジェスト』2014年7月10日発行 『日本代表23人の少年時代』より抜粋